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許斐 私の歯科大眼科との関わりは、 大学生だった1992年にこちらで角膜移植を受けたことに始まります。その後、内科医として働いていた時に、角膜移植患者の会が発足することになったので手伝ってほしいというお話をいただき、久しぶりに市川を訪れたのが 1995年。何かここでできることはないかと、 まずはコーディネーターとして1998年に入職しました。途中から眼科医の勉強を始めて眼科医になり、現在は移植医としての仕事をメインに、アイバンクの啓発的な仕事もお手伝いしています。
松本 移植を受けられた当時は「角膜 移植センター」だったんですよね。どんな様子でしたか?
許斐 メンバーは坪田先生、藤島先生、戸田先生の3人で、センターという名前はついていましたが、旧病院の外来に角膜 を入れる冷蔵庫などを置いて間借りしている状態でした。
青木 1993年に篠崎センター長が赴任し、1995年には独立した組織として「角膜センター」が設立。この時から専任のコーディネーターが置かれるようになったんですよね。
許斐 亡くなった方にすぐに対応したり、摘出後に切片にしたり、オペの日程を調整したりと、角膜移植にまつわる業務は膨大です。コーディネーターがいない場合は移植医が日常業務をやりつつ対応していくことになりますが、たとえばドナーファミリーのケアなど、移植医だけでは成り立っていきません。コーディネーターがいない病院も多いのですが、コーディネーターなしの角膜移植は歯科大では考えられないと思います。 |
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青木 同時にアイバンクもスタートしました。本来、アイバンクは都道府県に一つ。すでにアイバンクのあった千葉県内にできるということで、いろいろと調整も大変だったようです。でも、だからこそ、唯一無二の機能を持ったアイバンクにしようと、坪田先生や篠崎センター長は考えられた。設立にあたっては、海外からゲストをよんで国際アイバンクシンポジウムを開催し、センターのオープニングパーティーも開いたと聞いています。名前といい、海外から見ると、日本の角膜移植の中心に見えたでしょうね。
松本 1996年には移植件数も年間200件を超え、患者さんやドナーファミリーのケアにも力を注ぐようになりました。「患者の会」や「ドナーファミリーの集い」、
「ラン・フォー・ビジョン」などが、1997年ごろから次々にスタートして、現在まで途切れず続いています。
許斐 中でも「ドナーファミリーの集い」は、移植する側、受ける側、ドナーファミリーの三者が一つのテーブルに集まって、ドナーファミリーに感謝の気持ちを伝える貴重な機会。普段、移植をしていると、つい日常のことになってしまいますよね。でも、こういう会に参加すると気持ちが引き締まって、あらためてドナー、ドナーファミリーあっての移植医療だということを実感します。
松本 この病院では、ほかのアイバンクであっせんしきれない角膜があるのだけど歯科大で移植しませんかという連絡があった時、「使わない」ということは絶対にないんです「。せっかく提供して下さった方がいるのですから」と、先生方はどんな場合でも対応して下さる。それが文化になっているんです。 |
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青木 2001年に日本馬主協会連合様のご寄附によって、角膜センタービルができたことはもちろん大きなトピックです。器が整ったことで、このあたりからソフトの進化が加速してきた。中でも大きかったのは、2004年に10年越しで実現したRRS(RoutineReferralSystem)の導入です。これは当院に入院されてお亡くなりになった方に対して、角膜提供の意思があるかどうかをコーディネーターが確認するシステム。実施しているのは歯科大が日本で唯一、アジアで唯一です。これで献眼数が飛躍的に増えました。
許斐 移植術式も変化してきました。そもそもは全層角膜移植がほとんどだったのが、2002年から培養上皮移植が、2007年から角膜内皮移植が始まり、角膜全体ではなく問題のあるところだけを替えるパーツ移植が増えてきた。より患者さんに負担をかけずに、移植した角膜がなるべく長持ちするような方法を、という方向で技術が進歩してきたということですね。そして、まだまだ進化し続けています。
松本 RRSの導入や術式の進歩もあって、センター設立10周年の2005年には角膜移植3000件を突破、そして今年は5000件を達成しました。
許斐 移植を待っている人には移植を、でも、移植しなくても済む人を増やしていくことも、当科の今後の仕事だと思います。将来的には、人工角膜や再生角膜で移植がまかなえるようになって、人の角膜が要らなくなる日が来るかもしれません。それでも、角膜を公平公正に分配することも含めて、移植を文化として育ててきた歯科大が移植医療に果たす役割は、今後ますます大きくなるのではないでしょうか。
青木 “すべては患者さんのために”ということですね。移植件数が何件になろうとも、角膜の質が変わろうとも。
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1991年、1件からスタートした角膜移植が1993年には年間50件を超え、1996年からは年間200件を超える移植がコンスタントに行われるようになりました。2002年からは培養上皮による移植も開始。
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2012年の初め頃、当科で行った角膜移植が5000件を超えました。1990年に坪田前教授が赴任し「前眼部を専門にする」と決めて医師3名で再スタートを切り、第一例目の移植を行ってから、22年。当科は名実ともに日本の角膜移植のトップランナーとなりました。絶対的なドナー不足に挑むべく1995年には院内にアイバンクを設立し、現在年間100件を超える献眼に対応できるまでになりました。上の年表からも、5000件の実績は眼科と角膜センター・アイバンクが協力し、ともに発展してきた証しであることがわかります。
研究室の存在も忘れてはなりません。角膜センターの2階は眼科専用ラボとなっており、角膜再生医療だけでなく、ドライアイやアレルギーなどの研究が日夜行われており、臨床実績を支えています。2002年に始まった培養上皮移植は、ラボがなければ始めることすらできなかったでしょう。培養上皮移植は、スティーブンス・ジョンソン症候群や眼類天疱瘡など重症の瘢痕性角結膜上皮症に対して効果のある数少ない治療のひとつです。10年間で200件近い実績を積み、今後のさらなる研究に生かしたいと考えています。
水道橋病院のビッセン教授はいまや屈折矯正手術の第一人者となられましたが、フェムトセカンドレーザー手術をはじめ、お互いの強みを生かした連携を行っています。また、慶應大学に移られた坪田教授は慶應というフィールドを生かして再生医療に意欲的に取り組んでおられ、当科も共同研究を進めています。22年を経てこのような有機的なつながりが拡がっていることは、我々の貴重な財産です。
全国には角膜移植が受けられない患者さんはたくさんいて、治せない前眼部疾患もまだ多く残されています。5000件を通過点として、これまでの実績を糧にさらなる前進を続けたいと思います。 |
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